Masuk数日後の昼休み、俺と奏は中庭のベンチで弁当を広げていた。秋の終わりだが、日当たりがよくて暖かさを感じていたこともあり、外でも寒さを感じにくかった。仲良く並んでいる今の俺たちは、あの日のすれ違いなんて最初からなかったかのよう。「蓮、この卵焼き、昨日もらったものより甘い」 楽しげに喋る俺たちに向かって、校舎の影が長く伸びる。綺麗な色をした紅葉の葉が一枚、風にさらわれて足元に舞い落ちた。「味が変わったのか? 気がつかなかった」 「蓮のお母さんが、砂糖を多めに入れて作ったんじゃないかな」 そんなありふれた会話が、ただ心地よく耳に響く。手を伸ばせばすぐそこに奏がいて、その存在をちゃんと感じられる――それだけで充分だった。 どこからか見られている視線を感じて、何気なく顔を上げる。校舎の窓の向こうに見えた影は、俺たちを凝視しているように動かなかった――ほんの一瞬だったのに、冷や汗が滲む。肩の形も立ち方も、見覚えのない男子生徒だった。けれど目を凝らしたときには、もう誰もいなかった。(……気のせいか?) そう思って、ふたたび箸を動かす。でも胸の奥に、指先で紙を擦ったときのような細かいざらつきが残った。 放課後、校門を出たときも同じだった。歩道の向こう側に、一瞬だけ背中が見えた気がして目を凝らしたが、そこには通りすがりの人波しかない。 誰もいないはずの背後に、足音だけがまとわりつくような錯覚。首筋の産毛が逆立ち、冷気が這い上がってくる。なにも起きていないはずなのに、皮膚のすぐ下を冷たいものが這う感覚がどうしても消えなかった。(まさか、神崎じゃないよな……? いや、考えすぎだ) そう打ち消しても、不安は種のように胸の奥で芽を出し続けた。「蓮、どうしたの? なにか気になることがあるのかな」 「いや……神崎のことがあってから、変に神経質になっているのかもしれない。実際、なにもないし」 普段の学校生活では奏と別々のクラスで、互いに行き来しなければ同じ時間を共有することができない。しかも俺は生徒会の仕事も抱えている関係で、毎回一緒に帰れる保証はなかった。(こうして奏と喋ることのできる貴重な時間を、くだらないことで潰したくない。それなのになんだろう。言い知れぬ不安を拭うことができないのは) 夕焼けに染まる空の下で、その小さなざわめきは音もなく膨らんでいった。
*** 神崎の声が背後に遠ざかっても、耳の奥にはまだ残響がこびりついていた。「くだらない」なんて自分から吐き捨てたくせに、胸の奥ではそのひと言で針が刺さったみたいに疼いてしまう。 奏の手を握る指先が、無意識に強くなった。「蓮……痛い」 小さく言われたことで、慌てて力を緩めた。(――俺はいったい、なにをしてるんだ) 歩道を並んで歩きながらも、視線は前だけに向けたまま。隣にいるはずの奏が、なぜか遠くに感じられる。冬の匂いを帯びた風が間をすり抜けていくたびに、その距離が目に見えない形で広がっていくようだった。 頭の中では、必死に言い聞かせる。(神崎がなにを知っていようと関係ない。俺の隣に奏がいれば、それでいいじゃないか) ――けれど、そのたびにあの「全部か?」が蘇り、不安は色濃くなっていく。「蓮、本当に大丈夫? さっきから顔が……」 「大丈夫じゃない」 言葉がこぼれた瞬間、奏が目を何度も瞬かせる。その顔を見たら、もう止められなかった。「神崎が奏のなにを知ってるかなんて、実際どうでもいい……そう思いたいのに、どうしても引っかかる。奏が俺に話をしてないことがあるんじゃないかって勝手に想像して、胸がざわつくんだ」 自然と呼吸が浅くなる。爪が手のひらに食い込む勢いで、拳を握り締めた。「もし神崎の言葉に、一片でも真実があったなら――俺は、胸の奥を素手で握り潰されるみたいに、どうしても耐えられない」 吐き出した瞬間、冷えた空気が肺に刺さった。自分の弱さを、奏に晒すつもりなんてなかったのに。 奏は驚いた表情のまま視線を落とし、やがて静かに名前を呼んだ。「……蓮」 その声は責めるでも慰めるでもなく、やけにまっすぐで。逆に胸の奥が締めつけられる。「そんなふうに思わせて、ごめんね」 そして、目を逸らさずに続ける。「全部話せって言われたら……すぐにはできない。でも、隠したいわけじゃない」 奏は一度口を開きかけて、言葉を飲み込んだ。沈黙が重く垂れこめる。やっと絞り出すように、かすかな声で言った。「ただ怖いんだ……言ったら、蓮が離れていくんじゃないかって」 呼吸が止まる。離れる? 俺が? そんなこと――。けれど奏の瞳は、本気でそう信じている色を滲ませていた。(俺の不安と奏の恐れ。形は違っても、根は同じなんだ……) 胸の奥の苛立ちが、ゆっくりと
午前中の授業は、ほとんど頭に入らなかった。黒板を写しているはずなのに、ノートの文字は妙に歪んでいる。 気づけば背後にある隣のクラスに、意識を飛ばしてしまった。(蓮は今、どんな気持ちで授業を受けているのだろう。彼は取り繕うのがうまいから、俺みたいに落ち着きをなくさないで、きっとノートもキレイに取っているはず――それでも俺と話すまでは、心中穏やかでいられないに違いない) 昼休みのチャイムが鳴る。林田に呼びかけられたが「ごめん、用事ある」とだけ言って、足早に廊下へ出た。廊下を歩く足音がやけに大きく響いて、胸の鼓動と混じり合う。手のひらはじっとり汗ばんで、握ったままの弁当袋が滑り落ちそうだった。 隣のクラスに入り、氷室に視線を飛ばす。まだ机の上に弁当は出していなかった。彼は俺に気づき、少し驚いたように目を上げる。「ここで一緒に……いい?」 急いで近づいてかけた声が、思っていたより小さいものになってしまった。「ああ」 向かい合うと、教室のざわめきが遠のく。辺りに漂う昼の匂い――弁当の温かい香りや、机に反射する光までやけに鮮明に感じられた。「蓮あのね、昨日はごめん。蓮を困らせた気がして」 そのひと言で、俺を見つめる瞳が微かに揺れた。俺が謝ったことで、氷室の肩の力がほんの少しだけ抜けたのがわかる。「……困らせたのは、大きな声を出した俺のほうだ」 低く落ちる声。視線は机の上に落ちたままだった。「昨日、奏に言いたいことが他にもあった。でも……うまく言葉にならなかった」 胸が跳ねる。答えが近づいている予感に、無意識に前のめりになった。 沈黙――時計の秒針と、教室の笑い声がやけに遠くで混じり合う。「……奏」 静かな口調で名前を呼ばれ、俺はそっと頷く。「俺は、おまえを信じてる。けど――」 氷室は唇を噛み、まぶたを伏せる。そこから続く言葉を待つ数秒が、永遠にも思えた。教室のざわめきが遠のき、心臓の音だけが耳を塞ぐ。 俺から言葉を促すと、彼は短く息をはいた。「神崎の言葉が……まだ頭から離れない」 小さな声なのに、まっすぐ胸に落ちてくる。やっぱり、あの日の影はまだ消えていなかった。「蓮……」 俺が言葉を探すより早く、氷室がほほ笑んだ。けれどそれは、痛みを隠すための笑顔だった。「変だよな。俺らのことは俺らが一番わかってるはずなのに……神崎のあん
いつものように氷室に見送られ、自宅に到着。部屋の灯りをつけた瞬間、見慣れた景色がやけに白々しく目に映った。机に置いたスクールバッグが、軽い音を立てて沈む。その中には、今日一日の重さが全部詰まっている気がした。 制服のままベッドに腰を下ろし、スマホを手に取る。メッセージアプリに、氷室からの連絡はない。送ろうと思えば俺からすぐに送れるのに、指は画面の上で固まったままだった。(蓮のあの顔……忘れられない) 用事があると言っていたのに、急いで駆けつけてくれた氷室の顔。神崎の言葉を聞いたときの彼の瞳。怒りというより、必死になにかを押し殺していた色が宿っていた――それが頭に焼き付いて離れない。 俺は氷室にとって、安心できる存在でいたい。ドジばかりの自分でも、氷室が不安に沈んだら真っ先に手を差し伸べられる、しっかりした存在でありたかった。 だけど今日の俺は、それを受け止めきれずに黙ってしまった。あの沈黙が、彼の中の影を濃くしたんじゃないか――そんな気がしてならない。 窓の外、遠くで電車が通り過ぎる音がする。本来なら心を落ち着けてくれるはずなのに、今夜は逆に胸の奥をざわつかせるだけだった。(ぐだぐだ考えてもしょうがない……明日、ちゃんと話そう) そう決めてスマホを机に置く。ベッドに横たわっても、天井の木目が線となって眼に焼きつき、何度も数え直してはため息が漏れる。そのたびに時計の針の音が耳に刺さり、眠りの扉はどんどん遠ざかっていった。 翌朝、いつもより早く家を出た。眠れなかったせいであくびが止まらない。まだ夜の冷たさを僅かに残した空気が、肺の奥まで刺さるように入り込む。 校門に近づくと、すでに氷室がいた。門柱にもたれ、スマホをぼんやり見つめる氷室の顔は、まぶたの下に薄い影を宿したものだった。夜を越えても休めなかった証のように見えて、胸がひどく締めつけられる。「蓮……おはよう」 俺の声に、氷室は反射的に顔を上げる。いつもどおりの笑み――そう見えた。だが目の奥には、薄い膜のような硬さが残っている。「おはよう。早いな」 「なんか……眠れなくて」 他愛のない会話を交わしながら、並んで昇降口へ向かう。手を伸ばせば届く距離なのに、その間に透明で冷たい壁が立ちはだかっているようだった。 靴を履き替えるとき、氷室がふと俺を見た。その視線とぶつかった瞬間、昨日の影
*** 氷室の大きな声が昇降口に響いた瞬間、全身が一気に硬直した。いつも冷静沈着な彼が、あんなふうに声を荒げて取り乱すなんて――今まで一度も見たことがなかった。 健ちゃんが去ったあと、握られた手から熱と微かな震えが伝わってくる。その熱は不安と同じくらい強くて、今にも燃え広がりそうだった。 あのあと一度だけ健ちゃんは振り返ったが、なにも言わずにそのまま背を向けた。その姿が校門の外に消えると、張りつめた空気だけが残った。 廊下の奥から「え、今の氷室?」と囁く声が聞こえ、気づかないふりをしても、突き刺さる視線が皮膚を焼くように痛かった。それでも氷室は俺から目を逸らさず、手を握りしめ続ける。硬い表情のままの彼に、そっと声をかけた。「……蓮、大丈夫?」 やんわりと声をかけても、そこからうまく言葉が続かない。どうして彼がここまで感情を爆発させたのか、なんとなく理由はわかっている――健ちゃんが俺に近づくたびに、氷室が少しずつ変わっていったのを感じていたから。それを確かめたくて、思いきって訊ねた。「俺……そんなに蓮を不安にさせてたかな?」 やっと絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。氷室は短くまぶたを伏せ、そして俺の手をさらに強く握る。「……不安じゃない。ただ、神崎に譲る気がないだけだ」 まっすぐな言葉が胸に落ちた瞬間、嬉しさと同じくらい、正体のわからない怖さが広がった。氷室の瞳に宿る熱は、守るためのものなのか、それとも失うことを恐れているからなのか――まだ判断できない。 ただ一つだけ確かだったのは、この瞬間、俺たちの関係が形を変えたということだった。 手をつないだまま昇降口を出る。秋の冷たい風が頬を掠め、氷室は強く手を黙ったまま、俺を引きずるように歩いた。氷室に握られた手は熱いはずなのに、指先だけが妙に冷えていく。もし今この手を離したら、もう二度と繋げない気がして――俺はただ、指先の冷たさを必死にごまかした。 途中、彼がふと立ち止まり、俺を振り返った。その表情はさっきの鋭さが嘘のように静かだが、奥に僅かな揺らぎが確実にあった。「奏……悪かった。大きな声を出した俺、すごく怖かっただろう?」 謝られるなんて思っていなかったから、言葉がすぐに出なかった。こんなにもまっすぐに欲してもらえることが、心の奥では嬉しい。けれど、その熱が行き場を失ったとき、
門をくぐった瞬間、いくつもの視線が俺をかすめた。昨日まではただのざわめきに過ぎなかったものが、今日はひとつひとつの視線が俺を値踏みするようで――そこに神崎の眼差しが紛れ込んでいる気がしてならなかった。 昇降口の前で、奏がぱっと笑顔を咲かせ、大きく手を振った。奏の笑顔は太陽みたいに変わらず眩しい。その光が嬉しいのに、胸のどこかがちくりと痛む。まるでその笑顔が俺ではなく、神崎のほうを照らしてしまうんじゃないかと、ありもしない想像が勝手に膨らんでいく。『――君が大事にしてる奏は、俺が一番よく知ってる。君よりも、ね』 不意打ちのように、その言葉は油断していた心に鋭く刺さった。俺は僅かに瞳を細め、呼吸を整えてから奏に歩み寄る。「おはよう」 「おはよ! 今日は少し早いね」 他愛もないやり取り。それなのに、自分が無理に声を軽くしていることを感じていた。奏の表情には、昨日の影がまったくない。それが救いなのか、それとも別のものなのか、答えはまだ出ない。 教室に入ると、同じクラスの神崎がふと視線を上げ、俺と目が合った瞬間、ほんの僅かに口元を緩めた。挑発でも嘲笑でもない。むしろ優しい笑みに近いその表情が、かえって俺の胸をざわつかせる。 休み時間。隣のクラスから奏がわざわざやって来て、机に腰をかける。週末の予定を楽しそうに話しはじめ、その声は本当に嬉しそうで――だからこそ、俺はあえて言葉を飲み込んだ。 神経質になっている俺が今ここでなにかを言えば、それは間違いなく棘になる。(……奏を守るって決めたのに。神崎に言われたたったひと言で、どうしてこんなに動揺しているのだろうか) 窓の外、風が校庭の砂をさらって舞い上げる。その砂は舞い散りながら、俺の胸の奥にも静かに降り積もっていく。気づけば息をするたび、胸の奥でざらついた重さが増していった。 次の日の昼休み、購買で買ったパンを手に教室へ戻ると、窓際の自分の席に奏が座っていた。机に肘をつき、窓の外をぼんやりと眺めている。その横顔はやけに無防備で、見ているだけで胸の奥が温かくなる――はずだった。けれど今はその無防備さが、俺の届かない誰かに開かれてしまうのではないかと、不意に不安を煽った。 その場で俺の足は止まり、不安で胸の奥が小さく揺れる。奏の視線の先、グラウンドに神崎が立っていた。偶然そこにいるようでいて、どこかでこち







